教皇フランシスコ死去 南米からヴァチカンへ……カトリック教会を変えた伝統的な教皇

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キリスト教カトリック教会のローマ教皇庁(ヴァチカン)は21日、教皇フランシスコが亡くなったと発表した。88歳だった。前日に復活祭(イースター)のミサのため聖ペトロ広場に出たのが、信者の前に姿を現した最後となった。(文中一部敬称略)
ヴァチカンによると、教皇はヴァチカン市国内にある「聖マルタの家」の居室で亡くなった。
ケヴィン・ファレル枢機卿は、「最愛の兄弟姉妹の皆さん、深い悲しみと共に、教皇フランシスコの死去を発表しなくてはなりません」と発表。「(現地時間)午前7時35分に、ローマ司教フランシスコは、父の家に帰りました。その全生涯を、主なる神とその教会への奉仕に捧げていました」と追悼した。教皇はローマ司教を兼ねる。
1936年12月にアルゼンチン・ブエノスアイレスでホルヘ・マリオ・ベルゴリオとして生まれた教皇は2013年3月、前任のベネディクト16世が異例の辞任をしたのを受けて、南北アメリカ大陸および南半球から初めて教皇になった。
欧州以外で生まれて教皇になったのは、シリアで生まれて741年に亡くなったグレゴリウス3世以来だった。イエズス会の神父としても、初の教皇だった。イエズス会は長いことヴァチカンから疑いの目で見られていたからだ。実に、初めて尽くしの教皇就任だった。
前任者のベネディクト16世は2013年2月、自ら選んで退位した。教皇が自主的に退位するのは、約600年ぶりのことだった。そして、ベネディクト16世が2022年12月に亡くなるまでの10年近く、ヴァチカンの庭には教皇と名誉教皇、つまり「二人の教皇」が行きかうことになった。

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85歳で退位したベネディクト16世の後任には比較的若い枢機卿が選ばれるのではないかと、カトリック信者の多くは予想していたものの、2013年3月に行われたコンクラーヴェ(教皇選挙)で選ばれたのはアルゼンチンのベルゴリオ枢機卿で、すでに76歳だった。
コンクラーヴェにおいてベルゴリオ枢機卿は、革新でも保守でもない、双方が妥協できる中間の候補とみなされた。性にまつわる事柄については保守派が支持できる正統的な立場を維持しつつ、社会的正義についてはリベラルな姿勢で改革派を引き付けることができた。
教皇としては異例なその経歴が、ヴァチカンを刷新し、教皇庁の神聖な使命をあらためて活気づけるのではないかとも期待された。

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しかし、ヴァチカンの官僚機構の中では、教会を改革しようとする教皇フランシスコの取り組みへの抵抗が続いた。退任したベネディクト16世は、伝統主義者の間で依然として人気を保ち続けた。
教皇フランシスコは選出の瞬間から、これまでのやり方を変えると身をもって示した。2013年3月13日に5回目の投票で選ばれると、伝統に沿って教皇座に座った状態で枢機卿たちのあいさつを受けるのではなく、立って、自分を選んだ枢機卿たちに一人一人あいさつした。
聖ペトロ広場を見下ろすバルコニーに新教皇として姿を現した際には、華やかな祭服ではなく、簡素な白い服装だった。教皇としての名前は、13世紀に清貧と平和を説き、小鳥など生きとし生けるものを愛せよと教えたアッシジの聖フランチェスコにあやかって選んだ。

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壮大な豪華絢爛(ごうかけんらん)よりも、質素と謙虚を断固として重視した。教皇専用リムジンの利用を避け、枢機卿たちを執務先から居室に送り届けるバスに、一緒に乗り込んだ。
教皇は、12億人強の信者たちに道徳的な使命を課した。「貧しい者のための貧しい教会を望んでいる」とも述べた。
今年2月半ばに呼吸器異常のために入院し、たびたび重篤な状態に陥りながらも5週間後に退院した教皇は、キリスト教にとって最も重要な行事、イエス・キリストの復活を祝うイースターを迎えた4月20日、聖ペトロ広場に集まった数万人の信者の前に姿を現した。
「親愛なる兄弟姉妹の皆さん、復活祭おめでとうございます」とささやいた後には、専用車に乗って広場をめぐり、次々と信者たちを祝福した。これが、信者を前にした最後の姿だった。
ブエノスアイレスの少年

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ホルヘ・マリオ・ベルゴリオは、ベニート・ムッソリーニのファシスト政権から逃れるため1929年にイタリアからアルゼンチンに移住した両親の長男として、1936年12月17日にブエノスアイレスで生まれた。この未来の教皇は、弟2人、妹2人と共に育った。
ホルヘ・マリオ少年はタンゴの踊りが好きで、地元のサッカークラブ、サン・ロレンソのサポーターでもあった。

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21歳で重度の肺炎にかかり、肺の一部を切除する手術を受けた。一命は取り留めたものの、感染症にかかりやすくなった。
高齢になると、右膝の痛みにも悩まされるようになり、本人はそれを「肉体的な屈辱」と表現していた。

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若いベルゴリオは工業高校で化学を学び、卒業前にはナイトクラブの用心棒や清掃係として働いていた。
地元の工場で親しくしていた同僚の中に、アルゼンチンの軍事独裁政権に対抗する活動に熱心だったエステル・バレストリーノがいた。バレストリーノは後に軍事政権に拘束され、拷問され、その遺体は見つからずじまいとなった。
聖職者の道を選んだ青年ベルゴリオは1955年から神学校で学んだ後、1958年にイエズス会士となった。哲学を学び、やがて文学と心理学を教えた。10年後に司祭として叙階されると、速やかに昇進し、1973年にアルゼンチン管区長に就任した。

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アルゼンチンでは非難も
戦後アルゼンチンでは、1983年まで軍政が断続的に続いた。軍事政権の残酷な将軍たちに対抗するのに、ベルゴリオ司祭が十分努力しなかったと感じている人もいた。
1976年から1983年にかけて何千人もの人が拷問を受けたり、殺害されたりした。行方が分からないままの人も大勢いた。このアルゼンチンの「汚い戦争」中に、軍が二人の神父を誘拐した。これに、ベルゴリオ司祭が関係したと非難された。
二人は拷問された後、強い鎮静剤を投与され、半裸の生きた状態で見つかった。貧困地区での二人の活動は教会の承認を得てのことだったと、ベルゴリオ司祭が当局に知らせていなかったのだと、関係者から非難された。もしもこれが本当なら、司祭は神父二人が殺されてもかまわないと見捨てていたことになる。しかし、ベルゴリオ司祭は徹頭徹尾、これを否定した。自分は舞台裏で、二人の釈放に尽力したのだと主張した。
ではなぜ表立って声を上げなかったのかと質問されると、それは状況的に難しすぎたのだと司祭は答えたのだと言われている。実際のところ当時の彼は36歳で、そのころアルゼンチンは、年月を重ねたベテラン指導者でも苦慮しただろう混乱状態にあった。アルゼンチンから逃れようとした大勢を、司祭が支援したのは事実だ。
イエズス会の中には、ベルゴリオ司祭が「解放の神学」にあまり興味を持っていないと批判する人たちもいた。確かに、その人たちと司祭の姿勢は違っていた(解放の神学とは、不正打倒を目的に、キリスト教の思想とマルクス主義社会学を統合したもの)。対照的に、ベルゴリオ司祭はより穏やかな形の司牧的支援で、信者や地域社会を支える道を好んだ。
司祭とイエズス会の関係は平たんではなく、疎遠になりかけたこともある。2005年に彼が教皇就任を初めて志したことで、やっと安心できたイエズス会士もいたほどだ。

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質実を好み
1992年には当時の教皇ヨハネ・パウロ2世から、ブエノスアイレス補佐司教に任命され、1998年にブエノスアイレス大司教になった。
2001年には枢機卿に任命され、カトリック教会の行政を担う教皇庁でさまざまな役職に就いた。
高位聖職者につきものの華美な装飾を退け、質実を好む人として知られるようになった。飛行機に乗る際には通常はエコノミークラスに乗った。司教を表す紫や枢機卿を表す緋色(ひいろ)の祭服よりも、聖職者としての黒衣を好んだ。

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説教では社会的な包摂を呼びかけ、社会の最も貧しい人たちに目を配らない政府を批判した。
「私たちは世界で最も不平等な地域に住んでいる。この地域は最も成長してきた。しかし、貧困がこれほど減らない地域はほかにない」などと述べた。
対立解消を目指し

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東方正教会との千年にわたる分裂の修復に尽力したことから、コンスタンティノープル総主教は2013年3月、1054年の大分裂以来初めて、教皇が兼ねるローマ司教の就任式に出席した。
教皇はさらに、イングランド教会、プロテスタントのルーテル派やメソジスト派と協力したほか、イスラエルの大統領とパレスチナ自治政府の議長が共に平和のために祈る場を設けた。
イスラム過激派がキリスト教会を攻撃すると、イスラム教を暴力と同一視するのは正しくないと述べ、「イスラム教の暴力について語るなら、カトリック教徒の暴力についても語らなくてはならない」と言明した。
フォークランド紛争をめぐっては、アルゼンチン政府による領有権の主張を支持し、「亡くなった人たちのため、母なる祖国を守り、自らの国を取り戻すために旅立った祖国の息子たちのため、祈りをささげるべく集まりました」と礼拝で述べている。
さらに、スペイン語を話すラテンアメリカ出身者として、アメリカ政府がキューバとの歴史的な和解に歩み寄った際に、仲介役として重要な役割を果たした。ヨーロッパ出身の教皇が、キューバとアメリカの仲介にあれほど重要な外交的役割を果たせたとは、想像しにくいことだ。

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伝統主義
教会の教えの多くについて、教皇フランシスコは伝統主義者だった。
神学校で共に学んだモンシニョール(高位聖職者)のオスヴァルド・ムスト神父によると、教皇は「安楽死、死刑、中絶、生存権、人権、司祭の禁欲独身について、教皇ヨハネ・パウロ2世と同じくらい妥協を許さなかった」のだという。
教会は性的指向にかかわらず人を歓迎すべきだが、同性愛者の養子縁組は児童に対する差別の一種だと教皇は主張した。同性カップルの結びつきを温かく歓迎するさまざまな言葉もあったが、教皇はそれを「結婚」と呼ぶことには反対した。そのようなことをすれば、「神の計画を破壊しようとする」ことになるという意見だった。
2013年に教皇となった直後にはローマで中絶反対デモに参加し、「受胎の瞬間から」の胎児の権利を訴えた。 良心をもとに行動するよう産婦人科医らに呼びかけ、これについて国民投票を実施したアイルランドの国民には、弱い立場の者を守るよう懇願するメッセージを送った。
女性の聖職叙任に反対し、その可能性は教皇ヨハネ・パウロ2世が明確かつ決定的に否定したと宣言した。
さらに、就任当初は避妊具が病気予防に使われる可能性を認めていたように見えたものの、避妊具によって女性が、男性の性的満足の道具にされてしまうかもしれないと警告した、教皇パウロ6世の教えを支持した。
2015年には訪問先のフィリピンで、避妊は「子どもの不足による家族の破壊」をもたらすと述べた。子どもを持たないこと自体を問題視したのではなく、子どもを意図的に避けようとする姿勢を懸念してのことだった。

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児童虐待との闘い
しかし、教皇フランシスコの在位にとって最大の課題はほかに二つあった。一つは、児童虐待への取り組みを怠っているという批判。そしてもう一つは、教皇が信仰を薄めていると感じた保守派からの批判だった。特に保守派にとっては、離婚・再婚したカトリック教徒に教皇が聖体拝領を認めたことが大問題だった。
保守派はさらに、教皇に対抗する長年の闘争において、児童虐待の問題を自分たちの武器とした。
2018年8月には元駐米教皇大使のカルロ・マリア・ヴィガーノ大司教(当時)が、11ページに及ぶ宣戦布告を発表した。大司教は、米カトリック教会のセオドア・マキャリック枢機卿(同)による相次ぐ性的虐待を知りながら、教皇が5年間も枢機卿をかばい、沈黙していたと非難する公開書簡を教会の新聞に出した。
ヴィガーノ大司教は自分が2013年6月の時点で、マキャリック枢機卿が大勢の修道士や司祭を性的に虐待したと糾弾されていることを教皇に報告したにもかかわらず、教皇は対応しなかったと主張。マキャリック枢機卿が腐敗していると知りながらも「信任する補佐官」の地位を与えたとして、教皇の辞任を求めた。
「こうした同性愛者のネットワークは、秘密を隠して活動し、タコの触手のような力でうそをつき(中略)教会全体を絞め殺している」と大司教は主張した。 その後の論争は教会全体を巻き込む恐れがあった。
マキャリック枢機卿は最終的に、教皇庁による調査を経て、2019年2月に聖職を剥奪された。そして、ヴィガーノ大司教は2024年、「シズマ」(教会の分裂)を企てたとして教皇庁によって破門されている。
新型コロナウイルス感染症のパンデミックの間は、教皇は感染拡大を防ぐため、聖ペトロ広場での定期的な礼拝を中止した。また、道徳面での世界的なリーダーとして、ワクチン接種は普遍的な義務であると宣言した。
2022年にベネディクト16世が95歳で死去すると、教皇として1世紀以上ぶりに前任者を埋葬した。
この頃には教皇自身もさまざまな健康問題に直面し、何度か入院していた。それでも教皇は世界平和と宗教間対話の促進のため、取り組みを続けた。

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ロシアによるウクライナ全面侵攻が始まると、「不条理で残酷な戦争」を終わらせるよう呼びかけた。ただし、ロシアは挑発されてウクライナを侵攻したのだというロシア側のプロパガンダを受けいれたかのような発言をしたため、ウクライナ国民を落胆させた。
2023年には南スーダンを訪問し、同国の指導者たちに紛争終結を訴えた。
2024年9月には、2大陸4カ国を巡る野心的な旅を開始し、インドネシア、パプアニューギニア、東ティモール、シンガポールに立ち寄った。
しかし教皇は最近では健康悪化に苦しんでいた。今年2月から3月にかけては、両肺の肺炎を患い、5週間入院した。

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変革の教皇
ホルヘ・マリオ・ベルゴリオは、聖ペトロの使徒座(キリスト教会の意味)を変えるつもりで教皇になった。
中にはもっとリベラルな教皇を求めた人たちもいるだろう。聖職者による性的虐待というカトリック教会の負の遺産に、十分立ち向かわなかった、弱かったと批判する人たちもいるだろう。
しかし、教皇はカトリック教会を変えた。それは間違いない。
ヨーロッパ以外の国から140人以上の枢機卿を任命し、自分が受け継いだ時よりもはるかに世界的な展望の教会を後継者に残した。
飾り気のない教皇として質素倹約の手本となり、システィーナ礼拝堂が入る使徒宮殿ではなく、(ヨハネ・パウロ2世が迎賓館として建てた)隣の近代的な建物に住むことを選んだ。それ以外のやり方はすべて、見えと虚栄だと考えた。
「孔雀(くじゃく)を見なさい」と教皇は言った。「前から見ると美しい。しかし、後ろから見れば、真実が見える」。
教皇はさらに、教会内部の争いを切り崩して、組織のことよりも貧しい人々に注力し、教会を世間の人のもとへと戻そうとした。そうすることで、教会の歴史的使命を促進できると期待していた。
「自分たちの世界に閉じこもった教会の、霊的な病弊を、私たちは避ける必要がある」と、教皇は選出直後に語った。
「組織として傷ついていても表に出て病人を助ける教会か、引きこもっている教会か、そのどちらを選ばなくてはならないとしたら、私は前者を選ぶ」

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