自分はウクライナで取材するべきか……PTSDと共に生きる戦争取材歴30年のBBC記者
ファーガル・キーン、BBCニュース

ウクライナで起きている恐ろしい戦争の光景は、過剰な暴力行為を目撃した人が経験するトラウマについて、新たな懸念を呼び起こしている。心的外傷後ストレス障害(PTSD)の影響を受けている人は、世界中で数百万人に上る。2008年にPTSDと診断されたBBCのファーガル・キーン記者が、PTSDの影響や回復の可能性を探る。

一日中、そしてほぼ一晩中、私は頭の中で堂々巡りを続けていた。自分はここにとどまるべきなのか、それとも立ち去るべきなのかと。2月中旬のことだ。ウクライナで戦争が起きると、私は確信していた。そして私は、首都キーウのホテルの部屋から、間もなく爆発の炎で照らされるかもしれない街並みを眺めていた。
ここにとどまり、何が起きるか伝えたいという思いがあった。ウクライナで戦争が起きれば、それは自分が生きている間に起きる、最大級の出来事なので。
しかしその思いは、危険に吸い寄せられがちな自分の傾向が原因だった。危険にひかれるという私のその傾向は、これまですでにPTSDというかたちで、私の私生活に苦しみを与えていた。
私は当時、ウクライナが激しい爆撃にさらされ、市街戦も起きるだろうと考えていた。そして、そのような現場に残れば、自分の心の健康が深刻な打撃を受けることは、はっきり分かっていた。
その挙句、また入院することになっても、自分は本当にそれでいいのだろうか。あらゆる大きな音にびくっと反応し、眠れず、私のPTSDにつきものの気分の落ち込みのせいで、くたびれ果ててしまったとしても? 最前線の戦場で取材する自分の姿を見て、愛する人たちがストレスを受けることに、自分が罪悪感を覚えることになったとしても? そもそも私は数年前、戦争取材をやめると公言していたのに。
私はフライトを予約して、翌朝には帰路についた。
ところが、それから間もなく、私はウクライナ最西部にあるリヴィウで、西欧を目指して避難する大勢の難民を取材していた。

戦争取材はもうしないと公言したのに、なぜ現地にいるのかと、友人たちからメッセージが届いた。リヴィウは攻撃されていなかったし、ロシア軍がここまで来るには西部リヴィウは遠すぎる。これが、私の理屈だった。
これは、自分を危険にさらすことなく取材するための手段だった。それは事実だ。しかし、自分がリヴィウにいることは、内心で続く葛藤の一部でもあった。私は、きっぱりと戦地を後にすることができなかったのだ。
30年間の戦争取材
戦争報道の中毒性を、自分のこととして真剣に考え始めたのは、PTSDに関するBBCドキュメンタリーを作っている時だった。確かに私は世界について、そしてとりわけ極限状況に置かれた人間の行動について、深く知りたいと思う、好奇心旺盛(おうせい)なジャーナリストだった。

歴史と、現代の紛争で歴史がどう展開するのか。これも私が情熱を注いできたテーマの一つだ。さらに、目撃するという作業こそ、人権を守るために不可欠なものだと常に感じてきた。
私は30年間、北アイルランド紛争からルワンダでのジェノサイド(集団虐殺)、イラク、アフガニスタン、ウクライナに至るまで、数多くの戦争や内戦を取材してきた。
<キーン記者の関連記事>

しかし、私が選んだこの仕事には、健康的とは言いがたい部分があった。戦場での取材は神経ストレスのほか、自分の生存力を証明したがる強烈な強迫衝動を、何度も引き起こした。こうしたストレスは、父親のアルコール依存が原因で崩壊した家庭で育った私が、幼少期に経験したものと同じだ。戦地にいると、自分はもうおびえる子供ではないと、立証できた。今の自分は、声を出すことができるのだと。
2008年に正式にPTSDと診断されて以来、「トーキング・キュア」と呼ばれる談話療法のほか、抗うつ剤を併用してきた。私が受けてきた認知行動療法(CBT)という心理療法では、トラウマに関連するネガティブな思考を検証し、ポジティブな思考に置き換えていく。
談話と投薬を組み合わせることで症状は緩和され、もっと健康的な生き方はこうだと、知ることができた。加えて、私はもう20年以上、飲酒していない。以前の私は何年も、アルコールで心の痛みを癒そうとしていた。
各自に合わせた治療を
イギリスでは成人の100人に3人がPTSDを経験していると推計されている。レイプや暴行、家庭内暴力の被害者、事故の生存者などが発症する可能性がある。
ひとりひとりの心やトラウマ的経験には、それぞれ個別のアプローチが必要だ。これは、いくら強調してもしきれない。優れたメンタルヘルスの専門家は、自分が対処しているのは個々の人間であって、あらかじめ決められたレッテルごとに分類された症例ではないのだと理解している。
BBCドキュメンタリー「Living With PTSD」(PTSDと共に生きる)のための取材で、PTSDの治療に使われるさまざまな治療法を調べた。心理療法から投薬治療、そしてMDMA(メチレンジオキシメタンフェタミン)という薬物に至るまで、治療法は様々だった。MDMAは脳内の神経伝達物質の放出を促し、共感的な気分を作り出すため、より有用な治療につながると言われる。
MDMAを使う治療法をめぐってはイギリスで臨床試験が行われているものの、一般的な使用は認められていない。「テトリス」などのビデオゲームを使って、脳のストレスを和らげる方法についても、調査が進められている。アメリカとイギリスでの臨床試験では、その有用性が示されている。
私は幸運にも職場のサポートや、家族や友人の愛情を受けている。私の場合、孤独感や自尊心の欠如がPTSDに大きく関係しており、周囲の支援や愛情こそ、症状と戦う上で欠かせない武器となっている。

PTSDの体験談
PTSDと戦う人たちの体験談を聞くことも、大いに助けになった。ドキュメンタリー製作の一環で、私は北アイルランド・ベルファストにある「WAVEトラウマ・センター」を訪れた。
ここは、北アイルランド紛争時代の暴力を経験して生き延びたサバイバーに対し、心理療法や精神的サポートを提供している。10年以上前の調査では、北アイルランドはPTSDの発症率が世界で最も高いことが明らかになった。調査対象者の50%以上が、紛争に関連するメンタルヘルスの問題を抱えていた。
WAVEで私は、カトリック系過激組織アイルランド共和軍(IRA)の爆弾攻撃に遭い、同乗者が死亡したという女性や、職場でテロリストに撃たれた男性たちのグループに参加した。
このグループには、1979年にイギリス支持派に銃撃され、腰から下にまひが残ったピーター・ヒースウッドさんもいた。事件当時、救急隊員がピーターさんを救急車に乗せようとしているところへ、父親が駆けつけた。毛布がなかったため、救急隊はピーターさんを遺体袋に入れて体温が下がらないようにしたが、父親は息子が死んだと誤解し、その場で心臓発作を起こして亡くなってしまった。
銃撃犯がピーターさんの自宅を訪れた時、ノックされたドアを開けたのは、妻のアンさんだった。彼女はそのトラウマから立ち直れなかった。
「あの頃は心理療法のようなものもなかったので」と、ピーターさんは当時を振り返る。「決して忘れない。妻の目が石のようで、まるで彫刻のようになってしまったことを。話しかけても彼女は反応しなかった」。アンさんは大量に飲酒するようになり、51歳で亡くなった。
ピーターさんは、自分がWAVEで体験できているような心理療法を、妻が受けられなかったことを悔やんでいる。
「残念ながら、当時の私はこういうものがあることを知らなかった。会話することがいかに大事か、いくら強調しても足りない。いま同じ悩みを抱える世間の人たちに、私たちが何を提供できるのかを知って、話を聞いてもらいたい」
ピーターさんたちのグループは、何か話してくれないかと私に促した。私はその瞬間に感じていたことを伝えた。これほど苦しんできたにも関わらず体験を明かし、互いに助け合う勇気を持つ人たちと同席できたことに、身が引き締まる思いがしたと。彼らから刺激を受けたと。そして、私のような人間のために癒しがあるなら、理解してくれる人に手を差し伸べることから始まると思うと。
あなたたちと一緒にいると、まるで家に帰ってきたような気持になると、そう伝えた。私は、希望を感じた。

PTSDの症状
- 悪夢、フラッシュバック、トラウマ的体験について考え込む
- トラウマに関連する不安を引き起こす可能性のあるイメージや思考、場所の回避
- 過剰な警戒。自分が健康で良好な状態にあることを、何か脅かすものはないだろうかと、常に警戒する
- 過覚醒。音やにおい、動きに対して過剰に反応する
- 感情の離隔。感情が鈍麻しているように感じる可能性がある
- 短気
- 鬱(うつ)

この記事に含まれる内容に影響を受けた方には、心の健康に関する情報をBBCアクション・ライン(英語)で提供しています。
また、日本の厚生労働省が運営する「知ることからはじめよう みんなのメンタルヘルス総合サイト」もPTSDなどの心の健康に関する情報や相談先を紹介しています。












