ミャンマーの抗議行動、なぜ暴力化しているのか クーデターから1年
ジョナサン・ヘッド、東南アジア特派員

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ミャンマーで1年前、軍が電撃的なクーデターで権力を掌握した。直後の何時間か、世間はほとんど反応を示さなかった。
どう反応したらいいのか、誰も分からない様子だった。かつて30年間、軍政に反対する勢力を率いてきたアウンサンスーチー氏は拘束されていた。
「あの朝、インターネットと電話はつながらなかった」と、ヤンゴンの工業地帯ラインタヤで活動してきた、著名な組合指導者モサンダーミント氏は振り返る。
「初めはニュースを信じなかった。でもラジオを買いに外に出てから、クーデターが本当だと分かった。私たちは絶望的な気持ちになった。暗黒の日だった。ミャンマーは成長し始めたばかりだった。暴君に反撃する方法を考え出すことが、何より重要になった」
あの日が終わりに近づくころ、クーデターを見越してアウンサンスーチー氏が書いていたとみられるメッセージが明らかになった。ミャンマーの人々にクーデターを受け入れないよう呼びかける内容だった。
同時に、彼女の腹心のウィンテイン氏が、マハトマ・ガンディーを例に挙げながら、市民的不服従の運動を訴えかけた。非暴力の抵抗という、アウンサンスーチー氏の長年の戦略に沿ったものだった。
こうして市民的不服従運動(CDM)が生まれた。まず、働くことを拒んだ医療関係者と教員たちによって始められた。すぐに労働組合、公務員、音楽や映画のスター、LGBT+(性的少数者)のグループ、少数民族に広がった。
それらの人々はアウンサンスーチー氏の非暴力の信念を支持し、抵抗を示すポスターには彼女の顔があふれた。さらに、選挙によって選ばれ、彼女が率いてきた政府の復活を求めた。
モサンダーミント氏はクーデターの4日後、多数の労働者による初の抗議集会を開催した。軍支配に反対する全国的な運動の一環で、最初の月はカーニバルのような集会で通りが埋まった。
「労働者たちが撃たれるのではないかと心配だった」と彼女は言う。「でも、すごい数の人が行進に参加するのを目にして、不安は吹き飛んだ」。
いま彼女は、夫と子ども3人と共にタイに逃れて暮らしている。移動はまずヤンゴンから航空機に乗り、反政府の民族勢力が支配する、戦闘で荒廃した国境付近へと、くたくたになりながら到着した。そして夜中、おびえながら国境を越えた。

転換点は昨年3月だった。クーデターの指導者たちが軍に対し、抗議活動を容赦なく弾圧するよう命じた。
モサンダーミント氏が暴力に直面したのは3月14日だった。その時すでに、彼女は拘束を逃れるため、自宅を離れていた。
ヤンゴンのラインタヤは、外国人労働者が密集する厳しい環境で知られる地域だった。住民らは道路にバリケードを設置し、軍の進入を食い止めようとしていた。
「私は他の組合指導者たちと一緒に、次の行動を考えていた。突然、軍がやって来る音がして、みんな散り散りになった。軍はラインタヤから外に出る道路を全て封鎖し、私たちに向けて発砲してきた」と彼女は話した。「たくさんの人が死んだ。私の所で働く人たちも犠牲になった」。
「軍は最初、中央から撃ってきた」と、彼女の夫コアウン氏は振り返る。彼も抗議行動者らと共に路上にいた。「そのうち側面、そして後方からも撃ってきた。みんな身を隠そうとしたが、銃弾を防げるものはなかった」。
衛星などで撮影した画像を使って人権侵害を立証している団体ミャンマー・ウィットネスは、ラインタヤで最多80人が殺害されたとみている。同団体はこの出来事を、治安部隊が無差別に発砲した大虐殺と呼んでいる。
当時の映像からは、ラインタヤを見下ろす橋の上に配置された警察官らが、下にいる人たちに向けて、何の気なしな様子で発砲していたことがわかる。軍はモサンダーミント氏の自宅も捜索。彼女と家族は、ヤンゴンを出なくてはならないと悟った。
興奮状態だった最初の1カ月の抗議行動に参加した多くの人たちも、自宅を後にした。その中には、軍事政権相手の不利な武力闘争に、必死な思いで身を投じる人もいた。
後戻りはない
アウンサンスーチー氏は公には姿が見られなくなり、秘密の裁判の幕の裏側で繰り広げられていた闘争から切り離された。
彼女の政党の議員と関係者は昨年4月、国民統一政府(NUG)を設立。国際社会での承認を得ようとする軍事政権の試みに対抗するとともに、少数民族をより受け入れていくことで反軍政派のリーダーシップを広げようとした。
だが、メンバーたちは分散し、軍から逃れている状況が続いている。そのため、ミャンマー各地で急増した武装抵抗に対しては、NUGは限定的な影響力しかもてていない。
国民防衛隊(PDF)を名乗る各地の武装勢力は、軍から奪ったり自分たちで作ったりした銃や、即席の爆弾を使って、軍の車列を襲い、軍事政権で働く当局者を暗殺している。
平和的な抗議行動は、もはや話題にしない。実際、アウンサンスーチー氏の専制的なリーダーシップや、圧倒的に強大な軍と共存しようとした過去の努力に批判的な人もいる。かつての状態に戻ることはできないと、PDFの人々は言う。
ジョージとフランクの若者2人は、ヤンゴンの自宅近くであった反クーデターの抗議行動に参加した(この記事では本名は伏せる)。
ジョージは企業の重役で、ビデオゲーム好きのフランクはカフェで働いていた。今は共に、PDFの志願兵として、抵抗勢力が支配する地域で活動している。
彼らは昨年3月、バリケードのそばで人々が銃で撃たれるのを目撃。国際社会の支援は来ないと気づいた。そして、非暴力の戦略ではだめだと判断した。
「どうやって武装闘争を始めたらいいのかわからず、苦労した」とジョージは言う。「私たちは一般人であり、軍事訓練の経験はなかった」。

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ヤンゴンにいた活動家にとって最も簡単な方法は、同市東側に存在する反対勢力のどれかに参加することだった。そうした勢力は何十年間も中央政府と戦い続けている。
反クーデターの運動とは距離を置く団体もあるが、とりわけ3つの団体が、安全な場所と訓練を提供している。北部のカチン独立軍(KIA)、タイ国境沿いのカレン民族解放軍(KNLA)とカレンニー国民防衛隊(KNDF)だ。
ジョージとフランクはKNLAに参加。まず、仲間の信頼を得るのが問題だった。KNLAは軍のスパイが入り込むのを警戒している。そのうえ、最近までミャンマーの少数民族にほとんど同情を示さなかった多数派に対して、根深い不信感を抱えている。
次に問題となったのが武器だった。闇市場で自分で調達しなければならなかった。
ジョージは2000ドル(約23万円)相当を払ってピストルを買った。フランクは自分の車と土地を売って3500ドルを作り、アメリカ製のM4ライフル銃を手に入れた。銃弾の入手にはいつも苦労している。
KNLAはPDF志願兵に対し、経済的にはほぼ独立するよう求めている。一方で、活動面ではKNLAの指揮を受けるよう指示している。ジョージとフランクは、これに適応するのに苦労している。
「この活動に加わるまでは、勉強とゲームしか興味はなかった」とフランクは話す。
「ジャングルで暮らし、地べたで寝て、時々もうやめたくなった。与えられた物は何でも食べなくてはならなかった。肉よりバナナの茎のほうが多く口にした。慣れるのが一番大変だったのがトイレだった」

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昨年12月、二人は共に戦闘でけがを負った。軍が、PDF指導層とNUGメンバーの避難場所になっているとにらんだ地域に、攻撃を仕掛けたのだった。
彼らは、武力で圧倒され、恐怖と混乱に襲われた戦闘の様子を説明した。そして、PDFが名目上は忠誠を誓っているNUGから、物資の支援を全く受けられないと不満を述べた。
NUGは、アウンサンスーチー氏の非暴力原則にどこまで従うか、武装抵抗への転換をどこまで受け入れるかで割れている。
昨年9月、NUGは「人民防衛革命」を宣言。軍事政権に対して人々が武力を行使する権利を支持するとともに、各地の武装グループに向けて行動規範を示した。
NUGは国外に離散したビルマ人たちから多額の寄付金を得ており、防衛省を設立している。現在、PDFの小隊を指揮する立場のジョージは、同省と定期的に連絡を取っていると話す。ただ、同省よりKNLAの方針を優先すると言う。
クーデターから1年がたち、軍事政権への抵抗活動は、にぎやかで多様だった当初と比べると、気がつかないほどになっている。
治安部隊はこれまで少なくとも1500人を殺害。おぞましい虐殺も起きている。破壊された住宅は数百軒に及ぶ。軍事政権は、爆弾や暗殺、走行中の車からの銃の発砲で、兵士数百人が殺されたと主張している。
経済は崩壊している。いっそう多くの人が、国外に逃れざるを得なくなっている。









