「温かい泥のよう」 村上春樹氏の作品に引き込まれる読者たち
ケリー・アン(シンガポール)、白石早樹子(東京)

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日本では11日、作家・村上春樹氏(74)の6年ぶりの新作長編小説をいち早く手に入れようと、多くのファンが深夜から書店に並んだ。
東京のとある書店では、「街とその不確かな壁」の午前0時の発売に合わせ、LEDのサイネージでカウントダウンを行った。
待望の本を手にした読者の多くは、すぐさま本を開いて読み始めた。インターネットには、深夜営業のカフェでコーヒーと共に本を読みふける人々の写真がいくつもあがった。
村上氏はこの新作小説を、新型コロナウイルスのパンデミック中に「ほとんど外出することもなく」執筆したのだという。作品では、主人公が高い壁に囲まれた街へ旅をする。661ページにわたる物語は3部に分かれ、主人公は10代から中年へと変遷(へんせん)する。
しかし、とらえどころのない、マジックリアリズム的な物語で知られる村上氏の作品において、あらすじはあまり重要ではないかもしれない。
多くの読者にとってこのあらすじは、出発点に過ぎない。読者はそして、喪失と孤独、アイデンティティー、そして社会的・政治的出来事を探求していく。
新潮社の特設サイトで村上氏は、「コロナ・ウイルスが日本で猛威を振るい始めた二〇二〇年の三月初めに、この作品を書き始め、三年かけて完成させた」と書いている。
「その間ほとんど外出することもなく、長期旅行をすることもなく、そのかなり異様な、緊張を強いられる環境下で、日々この小説をこつこつと書き続けていた。まるで<夢読み>が図書館で<古い夢>を読むみたいに」
こうした謎めいた文章こそが、世界中のファン集団を熱狂させる。名古屋市のある書店は新作の発売に合わせて、村上氏の作品の一節を引ける無料の「ガチャガチャ」を用意した。
「温かい泥のよう」
新作小説の発表において、6年という空白期間はことさらに長いものではないし、村上氏は40年以上にわたるキャリアで多数の作品を発表してきた。村上氏はこれまでに少なくとも14作の長編小説と複数の短編集を上梓しており、50以上の言語に翻訳されている。
しかし、新作をめぐるこの盛り上がりが、日本での絶えない人気ぶりを示している。
長年の愛読者の悠さん(36)はBBCの取材で、村上作品の魅力は、夢と現実の2つの世界をつなげている点だと語った。
「時にはそれが『自分』と『自分でないもの』だったりもして、それが没入感を作り出している。私にとって村上作品は、温かくて柔らかい泥のようなもの。心地がいいけれど、気が付くとずぶずぶと物語に入り込んでしまう」
悠さんと村上作品の出会いは、20年以上前のことだ。通っていた小学校の教師に勧められたのが、きっかけだったという。
悠さんは「街とその不確かな壁」を発売日に買い、一気に読み終えた。村上作品に出会った当時の熱意そのままに。
村上作品の魅力として、既存のモチーフが繰り返し出てくることを挙げる読者も多い。
村上作品に頻出する要素は非常に有名で、2014年には米紙ニューヨーク・タイムズのサンデー・ブック・レビューが「村上春樹ビンゴ」を作ったほどだ。そこでは「耳への執着」、「謎めいた女性」、「顔のない悪役」、「都会の憂鬱」、「夜の東京」、「猫」をはじめ、「何かが消える」などさまざまな不思議なものやことが取り上げられていた。
英ニューカッスル大学の日本学講師を務めるジッテ・マリアンヌ・ハンセン博士は、「村上氏の言葉はある意味で文化を越えているので、世界中の人になじむのだと思う」と言う。
村上氏の短編の翻訳を手がけてきたハンセン博士は、「彼の物語は、現代を生きる私たちの内なる生活にある、人間性の核心部分に語りかける」と話す。「だからこそ私たちは、読者として反応してしまう。孤独や疎外感といった、核心的な思いは、文化を越えるのかもしれない」。
女性の描写に対する批判も
一方で、村上氏の女性の描写に対する批判は高まっている。
村上氏の作品に登場する女性は大抵、性の対象として描かれるか、男性登場人物との関係性においてのみ描かれていると批判する声がある。
村上氏自身も、2004年に文芸誌「パリ・レビュー」のインタビューで、「セックスが良ければ(中略)傷は癒され、想像力は活性化する(中略)そういう意味で、私の物語で女性は触媒で、来るべき世界の前触れだ。だからこそ、女性たちは常に自ら主人公のもとを訪れる。主人公の方から女性たちのところへ行くことはない」と話している。
英ロンドン大学バークベック校の日本語学講師を務めるマイケル・ツァン氏は、これは単純に「(村上氏が)特権として持つ男性の声」だと指摘する。その優位性は、 「ジェンダーその他の少数グループについて、(日本で)課題がまだたくさん残っている」ことの証左だと、ツァン氏は話した。

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しかし、村上氏の作品に見られるミソジニー(女性嫌悪)を見過ごすことができない人たちもいる。それが、彼が文学界最大の栄誉を長年にわたって逃した理由のひとつなのかもしれない。
あるツイッターユーザーは、「こんにちは日本の識者の皆さん、村上春樹はミソジニーを排除しない限りノーベル文学賞を取れない(中略)他のもっと良い日本の作家に期待するべきだ」と書いた。
東海大学の助川幸逸郎教授は、「未成年の少女を性的に描き、その肉体的官能を詳細に描写することは、今日の文学的文脈に照らして問題視されることがある」と指摘した。
非常に「日本的」だが世界にアピール
「街とその不確かな壁」は、1980年に執筆された同名の短編を大胆に書き換えたものだ。村上氏は、この題材にはもっと多くの内容が眠っていると信じていたと語っている。
ハンセン教授は、村上氏の作品は常に、「クールな日本文化を世界中に届けてくれるもの」と捉えられていると話す。
村上作品の多くは、1980年代から90年代にかけての日本経済の低迷を背景にしていると読み取れる。だからといってそれは、他の文化圏の読者の理解を妨げるものではない。
「作品のほとんどが日本を舞台にし、非常に『日本的な』社会構造を語っているにも関わらず、これほど広く読者を得ているのは驚くべきことだ」と、ツァン教授は言う。
不眠に悩む主婦を描いた短編「眠り」(1993年)は、日本の家族やジェンダー規範に対する村上氏の反応だと言われている。
村上氏はまた、原発事故や地震といった日本で起こった災害についても著作で触れている。
村上作品をきっかけに、他の芸術作品も生まれている。2022年の第94回アカデミー賞で国際長編映画賞を受賞した日本映画「ドライブ・マイ・カー」は、同名の短編小説を含む村上氏の複数作品を題材にしている。
最新作「街とその不確かな壁」は飛ぶように売れている。新潮社はこの作品の初版は30万部と発表しているが、そのうち約半数が発売から1週間で売れた。19日には、5万部の重版が決まった。
2017年2月に発売された前作「騎士団長殺し」は、前後編がそれぞれ70万部、60万部売れたという。
「街と不確かな壁」の英語版は、今年後半に発売される予定だ。







