ラムズフェルド元米国防長官、88歳で死去 イラク戦争など立案

画像提供, Reuters
アメリカのドナルド・ラムズフェルド元国防長官が29日、ニューメキシコ州の自宅でがんのため亡くなった。88歳だった。遺族が1日、発表した。ジョージ・W・ブッシュ政権の国防長官として、2003年のイラク戦争や「対テロ戦争」を立案した中心人物の1人だった。
2001年9月11日の米同時多発攻撃の後、米軍はアフガニスタンを攻撃。2003年にはイラクに侵攻した。
一連の軍事行動への批判が高まると、ラムズフェルド氏は2006年に辞任したものの、自分が推進した国防政策は正しかったと一貫して主張した。
ワシントンで数々の職を歴任する中、究極の政界インサイダーとしての評判を得た。政敵を巧みに追い落とし、地位を固めた。一方、権謀術数に長けた容赦のないタカ派、戦争の立案者という批判もつきまとった。
元長官の訃報を受けて、ブッシュ元大統領はラムズフェルド氏について、「知的で高潔な人、ほとんど尽きることのないエネルギーの人」で、「責任を前に決して臆したりしない」「卓越した公僕」だったとたたえた。
遺族は1日、「アメリカの為政者で、献身的な夫、父親、祖父、曾祖父だったドナルド・ラムズフェルドの訃報を、深い悲しみと共にお伝えします。88歳で、愛するニューメキシコ・タオスで家族に囲まれていました」と発表した。
遺族はさらに、「60年以上にわたり公僕として残した傑出した業績について、歴史は彼を記憶するかもしれませんが、彼を一番よく知り、そのおかげで人生が決定的に変わった私たちは、妻ジョイスを揺るぎなく愛し、家族や友人を愛し、国への奉仕に人生を捧げた高潔な姿を記憶し続けます」と述べた。

ラムズフェルド氏は、1932年にシカゴで生まれた。第2次世界大戦中に父が海軍で従軍したことから、海軍の奨学金を受けてプリンストン大学で政治学を学んだ後、海軍でパイロットとして勤務。連邦下院議員のスタッフを経て、1962年に30歳で共和党から下院議員(イリノイ州選出)に初当選した。

画像提供, Universal History Archive via Getty Images
1969年に共和党のリチャード・ニクソン政権が発足すると、政権スタッフになるため議員を辞職。ニクソン政権の大統領顧問や北大西洋条約機構(NATO)大使、ジェラルド・フォード政権の首席補佐官などを経て、1975年には43歳で史上最年少の国防長官に選ばれた。

画像提供, Bettmann via Getty Imates
ロナルド・レーガン政権では中東担当特使をつとめ、ビル・クリントン政権中の1998年には、ソ連崩壊後の世界における大陸弾道弾ミサイルの脅威について調べる超党派委員会を率いた。「ラムズフェルド報告」と呼ばれた報告書は、北朝鮮、イラク、イランなどアメリカに敵対する国家の脅威が高まっていると主張した。
2001年1月にジョージ・W・ブッシュ政権が発足すると、2度目の国防長官となった。

画像提供, AFP
同年9月11日に米同時多発攻撃が起きると、ラムズフェルド氏は間もなくアルカイダのオサマ・ビン・ラディンだけでなく、イラクにも報復攻撃をするべきだと主張していたことが、後に公開された資料から明らかになっている。
米軍は同年10月7日、アフガニスタン国内にいるアルカイダやタリバンに対する空爆を開始。地上部隊も速やかに投入された。
2003年3月のイラク侵攻に向けて、ラムズフェルド長官をはじめ複数の政権幹部は2002年になると、イラクのサダム・フセイン政権が保有する「大量破壊兵器」が世界の脅威だと開戦の正当性を随所で力説して回った。しかし、そのような大量破壊兵器は結局、見つからなかった。
在任中には、イラクのアブグレイブ刑務所で米兵が捕虜を虐待する様子や、米海軍グアンタナモ収容所での容疑者の扱いも、広く非難された。
ラムズフェルド氏の最も有名な発言のひとつは2002年2月に、大量破壊兵器の存在の証拠がないことについて、国防総省会見で質問された際のもの。「何かが起きていないと言われるのは、いつもとても興味深い。というのも、誰も承知しているように、知っていると知っていることがある。知っていると知っていることがある。そして、知らないと知っていることもある。つまり、知らないことを承知していることもあるというわけだ。しかしそれに加えて、知らないと知らないこともある。知らないことを知らないことだ」と述べ、この「知らないと知らない」ことが難題なのだと話した。
「知っていると知っている」、「知らないと知っている」などのこの発言が、当時から話題になり、イラク戦争についてブッシュ政権への批判がアメリカの内外で高まっていた当時、嘲笑の対象にもなった。
しかし、ラムズフェルド氏はイラク戦争に関する批判を受けても、自分の判断の正しさについて譲らなかった。2011年に発表した回顧録では、イラク攻撃の判断の正当性を主張しながら、自分の一部の発言については後悔の念を示した。さらに、イラクに派兵する米軍を増強することもできたと認めていた。





