ナチスドイツにいた黒人たち 語られてこなかった存在と迫害
デイミアン・ゼイン、BBCニュース

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映画監督のアマ・アサンテ氏はあるとき偶然に、ナチス時代のドイツで撮影された、黒人の女子生徒の写真を見つけた(文中一部敬称略)。
まっすぐにカメラを見つめる白人のクラスメートに混じって、この女生徒は謎めいたまなざしを別の方向に向けている。
この少女が誰なのか、ドイツで何をしていたのか――。アサンテ監督はこの写真に興味を持ち、アマンドラ・ステンバーグとジョージ・マケイを起用した新作「Where Hands Touch(その手が触るところ)」(邦題「16歳、戦火の恋」)を製作した。
この作品は、人種の混ざった少女とナチスの青少年組織「ヒトラー・ユーゲント」に所属する少年との、秘密の関係を描いた。フィクションだが、歴史的記録に基づいている。
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ナチス時代の1933~1945年、ドイツには何千人ものアフリカ系ドイツ人がいた。
彼らは白人との恋愛・婚姻関係を禁じられ、教育を受けられず、一部の職業から排除された。去勢される人もいれば、強制収容所へ送られる人もいた。
この時代のアフリカ系ドイツ人の話は、これまでほとんど語られてこなかった。
そして、アサンテ監督がこの時代の物語を映画化するには、12年かかった。

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「この話を信じない人、疑う人、中にはアフリカ系ドイツ人の暮らしはそれほど苦しくなかったはずだと一蹴する人もいた」
映画の下調べをする中で、こうした様々な反応が返ってきたと、アサンテ監督はBBCに話した。
アフリカ系ドイツ人のコミュニティーは、ドイツ帝国主義の産物だ。現在のカメルーンやトーゴ、タンザニア、ルワンダ、ブルンジ、ナミビアなどに当たるアフリカ南部の植民地から、船員や召使い、学生、あるいはエンターテイナーとしてドイツにやって来た。


歴史家のロビー・エイトケン氏によると、アフリカ移民は1914年に始まった第1次世界大戦を境に、ドイツに定住するようになる。ドイツのために兵士として戦った人たちも、その後ドイツに定住した。
しかしそれとは別のアフリカ人の存在が、やがて人種交流を恐れるナチスの懸念を増幅させることになった。
第1次世界大戦後に締結されたヴェルサイユ条約で、ドイツ西部のラインラントにフランス軍が駐留するようになった。
フランスはこの地域の監視に、アフリカ北部や西部からの兵士を少なくとも2万人送り込んだ。このうちの一部が、ドイツ人女性と関係を持ったのだ。
人種差別的な風刺
こうした関係の末に生まれた600~800人の子どもに対して、「ラインラントの私生児」という差別表現が生まれた。
この表現が、「混血」を忌み嫌う人々の思い込みと不安に響いた。性犯罪を起こすアフリカ人兵士というでっち上げ話や人種差別的な風刺が出回り、懸念をあおった。

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ナチスのイデオロギーの中核には反ユダヤ主義があったが、総統アドルフ・ヒトラーが1925年に発表した政治宣言「わが闘争」は、ユダヤ人と黒人を結びつけて描写している。
そこには、「ラインラントに黒人を連れてくるのはユダヤ人だ」と書かれている。
「そうやって必然的に人種の質を劣化させることで、彼らが憎む白人種を破滅させようとする、秘密の考えと明確な目的が常にある」と、ヒトラーは書いた。
いざ政権を握ると、ユダヤ人と人種的純血にこだわるナチスの妄執が次第に、ホロコーストへと至り、第2次世界大戦中に600万人ものユダヤ教徒が殺された。少数民族のロマや障害者、一部のスラヴ系もこの集団虐殺の犠牲となった。
アフリカ系ドイツ人を研究するエイトケン氏は、ユダヤ人ほど体系的な方法ではなかったにせよ、黒人もこうした迫害の対象となっていたと指摘。黒人もナチスの「過激化する人種政策」に飲み込まれてしまったと話す。
さまざまな証拠から、他の「人種的異人種」へのナチスの政策が「人種撲滅」という目標を目指していたことがうかがえるという。
「不完全な人間」
1935年に制定されたニュルンベルク法で、ユダヤ人とドイツ人の結婚が禁止された。この法律はその後改定され、黒人とロマもドイツ人とは結婚できなくなった。
しかし人種が混ざることへの恐怖は続き、1937年には、ラインラントで生まれた複数人種の子どもたちは強制不妊手術の対象となった。

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こうした手術を受けさせられたのは、少なくとも385人。アフガニスタン人の父とドイツ人の母を持つハンス・ハウクさんは、その1人だ。1997年に撮影されたドキュメンタリー「Hitler's Forgotten Victims(ヒトラーの忘れられた被害者たち)」に出演している。
ハウクさんはこの映画で、「気が滅入り、息苦しかった」と語っている。
「自分が不完全な人間のような気分だった」
別の被害者トマス・ホルツハウザーさんも、「子どもを作れなくなって、良かったと思うこともある。少なくとも、私のような屈辱は、経験しないで済んだから」と話した。
存命中にこうした経験を語った人はごくわずかだ。エイトキン氏はBBCの取材で、「大半のアフリカ系ドイツ人がどうなったのか、解明しようという動きはあまりなかった」と説明した。
「ナチスは強制収容所や強制不妊手術に関する資料の多くを、意図的に破棄した。そのため、特定のグループや個人がどうなったのかを確認しにくくなった。この点は留意するべきだ」
「ベル-ある伯爵令嬢の恋」や「A United Kingdom」などの映画を発表してきたアサンテ監督は、こうした人たちはアイデンティティーの崩壊に苦しんだと話す。両親の片方はドイツ人で、自分のこともドイツ人だと思っているのに、疎外され、十分に受け入れられなかった。
「アフリカ系ドイツ人の子どもたちは2つの場所で同時に生きていた。ドイツの中で生きながら、同時に部外者でもあった」
一人ひとりの体験は別々でも、ナチス政権の下では、すべてのアフリカ系ドイツ人が迫害の対象となっていた。
ドイツは20世紀初頭に植民地だった現在のナミビアで、先住民のヘレロ人とナマ人を虐殺しようとした。この時からすでに、黒人に否定的な態度がドイツ国内で醸成された。
ヒトラーが政権を握ってからも、黒人は嫌がらせを受け、公共の場で辱められ、特定の職業や教育から除外され、基本的には国籍を与えられなかった。
こうした動きへの反発もあった。例えば、ドイツ人と黒人の間に生まれたヒラリウス・ギルゲスは共産主義者となり、反ナチス運動を扇動した。その結果として拉致され、1933年に殺された。
1939年に第2次世界大戦が始まると、アフリカ系ドイツ人の立場はさらに危うくなった。人種の異なる相手と交際しようものなら、強制不妊手術や投獄、さらに殺人の対象になった。
存在感を無くす
それが、カメルーン人の父とドイツ人の母との間に生まれたテオドール・ウォニヤ・ミカエルさんにとっての恐怖だった。ミカエルさんは1925年、ベルリンに生まれた。
ミカエルさんは2017年にドイチェ・ウェレの取材で、大きくなると俗に「人間動物園」とも呼ばれていた民族学的展示に出るようになったと話した。

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「大きなスカートにドラム、踊り、音楽……。展示されている人は異国のものでエキゾチックで、故郷の様子を見せているのだというのが、企画の狙いだった」とミカエルさんは説明した。
「要するに、大掛かりなショーだった」
ナチスが政権を握ると、ミカエルさんはできる限り目立たないように務めた。特に10代になってからは。
「もちろん、この顔で完全に消えてしまうことはできないが、努力した」
「白人女性との接触をいっさい避けた。そんなことをすればひどいことになっただろう。去勢され、人種を汚した罪で起訴されていたかもしれない」

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1942年、ヒトラーの側近でホロコーストを主導したハインリヒ・ヒムラーは、ドイツに住む黒人の人口調査を命令している。これは黒人の大量殺人計画の予兆とみられているが、実行されることはなかった。
その代わり、少なくとも24人のアフリカ系ドイツ人が、ドイツ国内で強制収容所に送られた証拠が残っている。
ドキュメンタリー「Hitler's Forgotten Victims」に出演したエリザベート・モルトンさんは、「人がいきなり姿を消しても消息がまったく分からないということが、よくあった」と話した。モルトンさんの両親は、黒人を使った興行団を経営していた。
アサンテ監督は映画「Where Hands Touch」を通じ、こうした物語に光を当てようとしている。
ガーナ系イギリス人のアサンテ監督は、欧州の歴史ではアフリカ移民の役割や存在が見逃されてしまっていると感じている。しかしこの映画を見れば、黒人もまたナチスの支配下で苦しんだという事実を否定できなくなるだろうと話した。
「ナチスドイツに暮らしていた黒人たちが経験してきたことは多くが無視され、最近では否定もされていると思う」
「Where Hands Touch」は2018年秋にアメリカで公開され、イギリスでは今春公開された。日本では邦題「16歳、戦火の恋」でデジタル配信。
(英語記事 Being black in Nazi Germany)









