【追悼】 ファッションの皇帝、カール・ラガーフェルド氏

動画説明, ラガーフェルド氏について5つの豆知識 愛猫も大スター

2月19日に85歳で亡くなったカール・ラガーフェルド氏は、ファッション業界内では「皇帝」と呼ばれていた。もしくは、故郷のドイツ式に「カイゼル」と。それには理由がある。

何はともあれ、ファッション界を代表する存在の1人だった。ひとつだけでなく、ふたつでもなく、3つの高級ブランドの中枢にいたのだから。

30年以上にわたり「シャネル」を指揮してきた「カイゼル」が、華やかな創造性と優れた商才を組み合わせたことで、2017年のシャネルの売り上げは100億ドル(約1兆1000億円)に達した。

しかし、ラガーフェルド氏自身のブランドは、ビジネスの枠を超えて、本人の生活のあらゆる部分にまで浸透していた。

真っ白なポニーテール、濃い色のサングラス、白い襟を立たせたシャツ。ひと目で分かるコーディネートは世界的に知られていた。かつて「スウェットパンツを履くような人間は、自分の人生が自分でコントロールできなくなった人間だ」と言ってのけた人だけのことはある。

「私は歩くラベルだ」と、2011年にはCNNに語った。「私の名前はラガーフェルドではなく、ラベルフェルドだ」と。

スター誕生

正確な誕生日については、議論がある。公式ウエブサイトでは1938年に生まれたことになっている。しかし、実際に生まれたのは1933年9月だろうというのが、今では大多数の意見だ。

いずれにしても、ラガーフェルド氏はハンブルクでドイツ人の母親とスウェーデン人の父親のもとに生まれた。父・オットーはコンデンスミルクの輸入業者だった。カール少年が生まれて数年の内に家族はバート・ブレムシュエットの町に移り住み、第2次世界大戦の間をそこで過ごす。

しかし、カール少年は故郷に留まるつもりはなかったようだ。幼くして早くもファッションに興味を持つようになり、自分には何か大きな運命が待ち構えていると感じていたという。

「子供のころから、とても若いころから、『何をやるにしても自分は必ず注目される!』という感覚があった。自分は神聖な存在だと。みじめな戦後ドイツでは、自分は無駄になってしまうと思っていた」と、ドイツ・メディアに話したこともある。

ハンブルクで「ディオール」のショーを見たカール少年は1952年、パリに移り住んだ。

転機は1954年に訪れた。「ピエール・バルマン」主催のコンテストで、コートのデザイン画を描いて優勝したのだ。その才能に感心したデザイナーのバルマン氏は、10代のラガーフェルド氏を助手として採用した。

そのわずか3年後には、「ジャン・パトゥ」のアート・ディレクターに抜擢された。

さらに「クロエ」のデザインをしばらく手がけた後、1965年にはイタリアのブランド「フェンディ」に参加。「フェンディ」とのコラボレーションは終生続いた。

Taken on November 29, 1973 shows German fashion designer Karl Lagerfeld posing with models after receiving an award in Krefeld, western Germany

画像提供, AFP

画像説明, 1973年11月のラガーフェルド氏

しかし、ラガーフェルド氏を本当の意味で世界のひのき舞台に押し上げたのは、1983年から始まった「シャネル」との関係だった。創業者ココ・シャネルを1971年に失い低迷していた高級ブランドが、世界的なファッション・アイコンとして再興したのは、アート・ディレクターになったラガーフェルド氏の手腕によるところが大きい。

しかし本人は、自分が「シャネル」にもたらした変化を、ココ・シャネルは喜ばなかったかもしれないと認めていた。

「私がやることを、ココはすごく嫌がったはずだ。このブランドのイメージを刷新するのが私の役目だ。ココは絶対にやらなかったことを、私はしている。これまでの『シャネル』から出発し、『シャネル』のあるべき姿、なれる姿に向かう必要があった。過去の姿から、別の姿へ」

それでもラガーフェルド氏は、手にした栄光に安住しなかった。「シャネル」のディレクター就任の翌年には、自分の名前を冠したブランド「カール・ラガーフェルド」を立ち上げた。

服のデザインだけには飽き足らず、1987年には写真撮影に取り組むようになった。

しかし1989年には、悲劇に見舞われた。20年来のパートナー、フランス貴族のジャック・ド・バシェ氏がエイズによる病気を発症して死亡したのだ。

March 27, 1984 German fashion designer Karl Lagerfeld, flanked with models, acknowledges the public after the Chanel autumn-winter 1984/1985 ready-to-wear collection show in Paris

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画像説明, 1984年3月のシャネル秋冬プレタポルテ・コレクションのフィナーレに登場したラガーフェルド氏

伝記作家アリシア・ドレイク氏によると、バシェ氏はラガーフェルド氏の長年のライバル、イヴ・サン=ローラン氏とも交際していた。そのバシェ氏が亡くなるとラガーフェルド氏は一時期、体重が増え、様々な若者に次々と夢中になった。

21世紀になると、ラガーフェルド氏はダイエット産業に新規参入した。43キロの減量に堂々と成功し、その経験を書いたダイエット本はベストセラーになった。

2004年には英紙テレグラフになぜやせようと思ったのか聞かれ、「エディ・スリマンの作る服がいきなり着たくなったんだ。スリマンは前はサン=ローランのもとにいて、今ではディオール・オムのコレクションを作っている」と話していた。

同年には、オートクチュール・ブランドのデザイナーとして初めてファストファッションの「H&M」と提携した。

ほかにもさまざまな企業との提携は続き、好物のダイエット・コーク用にボトル・デザインを3種類提供したこともある。

2011年に開かれたダイエット・コークのコラボレーション発表イベントはきらびやかなもので、ファッション誌コスモポリタンによると、「ダイエットコークの入った杯を載せた銀の盆を持った男性モデル」が一晩中、ラガーフェルド氏の後ろについて歩いていたという。

In this file photo taken on May 3, 2017 German fashion designer Karl Lagerfeld acknowledges the audience with his godson Hudson Kroenig at the end of his Chanel Croisiere (Cruise) fashion show at the Grand Palais in Paris

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画像説明, 2017年5月のコレクションで、代父として親友の息子とキャットウォークを歩くラガーフェルド氏

晩年になっても新しい有名人や人気者との提携は続き、アメリカのリアリティー番組で人気タレントとなったカーダシアン一家や、米俳優ジョニー・デップの娘、リリー・ローズ・デップさんと仕事をした。1990年代にスーパーモデルとして大人気だったシンディ・クロフォードさんの娘、カイア・ガーバーさんとは一緒にコレクションを発表した。

その一方で、自撮り、いわゆるセルフィーの流行は受け入れず、「電子的マスタベーションだ」と一刀両断した。

年をとっても鋭い舌鋒が丸くなることはなく、近年ではドイツ政府によるシリア移民受け入れ政策を批判したり、性的暴行の被害者に連帯する「#MeToo」運動を批判したりして、広く非難された。

仕事のペースが落ちることもなかったため、今年1月下旬に初めて「シャネル」のショーに欠席した際には、体調が悪いのではないかとの懸念が広まった。

2月19日の訃報が伝わると、長年にわたり君臨したファッション界からは次々と追悼の言葉があふれ出た。彼は天才だった、偉大な業績を残した――という言葉が飛び交った。

しかし本人は、自分の業績をそれほど評価していなかったようだ。亡くなる2カ月前、回顧録を書いているのではないかという噂を、ラガーフェルド氏は否定していた。

「何も言うことはないので。むしろ、私のことは忘れてもらいたい。そうなるように手配している」