アルカイダの人質だった ロンドンの銀行マンが過ごした5年間
クレア・ベイツ

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冷たく晴れ渡ったサハラ砂漠の夜。スティーブン・マゴーンは仰向けに寝転がって星を眺めていた。毛布をあごの先まで引っ張り上げ、南アフリカで少年時代に習った星座をたどる(敬称略)。
「人生最高の休暇じゃないか」と、スティーブンは思う。「もしも自分が今、(国際テロ組織)アルカイダの人質でなかったら」
これが今年の初めのことだ。ロンドンの銀行マンだったスティーブンが人質になってから、もう5年目に入っていた。収容先のキャンプの中で、冬でも野外で寝たがるのはスティーブンだけだった。
周りには広々とした大地が開けていたが、日々の暮らしは「とても狭い」世界に限られ、「決まりきった日常」の繰り返しになっていた。
朝は日の出より前に起きる。イスラム教の夜明けの祈りをささげるためだ。人質仲間のヨハンや過激派の拉致犯たちと並んで、砂の上にひざまずく。
パンと粉ミルクの朝食を取った後、スティーブンたち人質は眠りに戻ることもあれば、運動をとることもあった。
自分たちは、ロンドン・トゥイッケナムのラグビー競技場ほどの広さを自由に動き回ることができた。それは許されていたと、スティーブンは振り返る。
「でも遠くへ行き過ぎると叱られた。いつもは気さくなメンバーの顔が、とても厳しい表情に変わった」
昼食は、巨大な迷彩色の容器に作り置きしてあるスパゲッティや米飯と、ヤギや羊、ラクダの肉。肉は人質が自分たちで炭火焼きにすることも多かった。過激派メンバーの好みは「油まみれ」の料理ばかりだったので。
「連中はキャンプに動物が迷い込むと、それも手当たり次第に殺して食べていた」
「カメがやって来た時は、殺す役目が僕に回ってきた。でもそれには棒で突いて頭を出させなければならない。あまりに残酷で、逃がしてやった」
人質たちは日中の一番暑い時間帯を小屋の中で過ごし、体を休めたり、イスラム教の聖典コーランの学習や暗唱に取り組んだりした。
「暗唱は小屋の中ですることが多かった。僕はアラビアの発音がうまくできなくて、連中の近くで暗唱すると笑われたので」
「訪問者がやって来ると、調子はどうだという質問の後、いつも決まって『暗唱は進んでいるか』と聞かれた」

それからスティーブンは、自分の小屋の改良に取り組んだ。折れた枝を使って自力で建てた小屋だ。ほかに没頭できるような作業はほとんどないだけだけに、この小屋については細部にまでこだわった。
「通気口は高くするのと低くするのとどちらがいいか。入り口に草があったほうがいいか。実験を繰り返し、砂の照り返しを抑えようと色々な方法を試した」
夜はだれもがくつろぐ時間だ。スティーブンは見張り役と親しくなろうと努めた。
「連中はお茶を入れて、アルカイダのビデオを見たり、時々フランスのラジオを聞いたりしていた」
「だけど1人になる必要があると思う時もありました。連中がばか騒ぎをしたり、死だの首切りだのを冗談の種にしたりするのにうんざりしてしまった」
1日の最後の礼拝を終えると、床に就く。
「家族のことをよく考えた。まだ僕を待っていてくれるのかな、生きてるのかな……って」
冒険の旅

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その5年前、スティーブンと妻のキャサリンはロンドン南西部パットニーのアパートを片付け、2人が生まれ育った南アフリカのヨハネスブルクへ引っ越そうとしていた。
2人は2006年、ロンドンの同じシェアハウスで暮らし始めて知り合った。スティーブンはロンドン金融街で契約社員として、キャサリンは国民保健サービス(NHS)の小児言語療法士として働いていた。
付き合うようになってから、スティーブンはキャサリンの強い意向でシェアハウスを出た。結婚したのはその1年後だった。
スティーブンもキャサリンも、英国での暮らしがとても気に入っていた。
「大勢の友達に囲まれていた」とスティーブンは言う。
「週末には一緒に郊外へ出かけて、(英南東部の国立公園)サウスダウンズの丘陵を自転車で横断した。途中でパブに寄ったりして」
スティーブンは釣り竿を持って愛車のバイクに飛び乗り、ロンドン南郊のサリー州でフライフィッシングを楽しむこともあった。

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だが2人は2011年、故郷の南アへ帰ることを決めた。
2人とも30代に入り、そろそろ腰を落ち着けて子供を育てたいという気持ちになっていた。スティーブンは、父の農園で採れるホホバ油の輸出事業を始めたいとも考えていた。
キャサリンが先に飛行機で帰国し、スティーブンは「最後の大冒険」をするため、欧州とアフリカをバイクで縦断することにした。

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思い立つきっかけになったのは、英俳優ユアン・マクレガーとチャーリー・ブアマンの旅を追ったBBCテレビのドキュメンタリー「大陸縦断〜バイクの旅」だった。
「キャサリンには、長くて6カ月までは構わないが、それ以上はだめだと釘を刺された」
2011年10月11日に英国を出発し、フランスとスペインを通ってジブラルタルへ。そこからモロッコへ渡った。さらにモーリタニアまで南下してから東へ向かい、11月9日にはマリに入った。
ここまでの道のりはほとんど、フォッケという名前のオランダ人ライダーと一緒だった。スティーブンがバードウォッチングのために短い間、道を外れる間はしばらく別行動だったが。

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首都バマコでビザを受け取った後、2人はさらに南のブルキナファソへ向かう予定だったが、直前になって変更した。古都トンブクトゥへ行く観光客のグループに加わることにした。
「予定のルートからちょっと外れてはいたけれど、トンブクトゥを回って写真を1枚撮って、それからまた予定通り進めばいいと思った」という。
フォッケのバイクが途中で故障したので、スティーブンのほうが1日早くトンブクトゥに着いた。
モロッコで出会ったオランダ人のシャーク・レーケとその妻ティリーと一緒に、安いホテルにチェックインした。そこへ旅行者があと2人加わった。ヨハン・グスタフソンというスウェーデン人と、マルティンというドイツ人だった。

11月25日の朝、一行は早起きしてトンブクトゥの散策に出かけた。好天に恵まれ、市場歩きや昼食を楽しんでからホテルへ戻った。
スティーブンが中庭でくつろいでいる時、ゲートから男たちの一団が駆け込んできた。
「1人がけん銃を振り回し、もう1人はカラシニコフ銃を持って入り口に立ち止まった。警察かなと思った」
混乱のさなか、ティリーが「みんな床に伏せて、テーブルの下へ」と叫ぶのがスティーブンの耳に届いた。気がつくとシャーク、ヨハンに続いて車に引きずり込まれ、網の下に寝かされていた。
「ドイツ人のマルティンは少し抵抗していたようだ。すると車の後ろから銃声が聞こえた」と、スティーブンは振り返る。「私はあとの2人に告げました。やつらはマルティンを殺したみたいだって」
荒野へ
その電話が鳴った時、スティーブンの父マルコム・マゴーンはヨハネスブルクの自宅でくつろいでいた。息子からかもしれない、と半ば期待した。

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「その2〜3日前にはマリからスカイプで連絡が来ていた」という。
「息子はこう話していた。『父さん、ぼくは英雄になりたいわけじゃない。危険すぎると思ったら、次の便ですぐに飛んで帰るよ』と」
ところがかかってきた電話は、オランダから。フォッケの母親だった。
「スティーブンの父親かと聞かれ、それから息子がアルカイダに拉致されたと知らされた」
「ショックだった。どうしたらいいのか分からなかった」
何があったのか妻のベバリーに伝えた後、電話帳で見つけたいくつかの政府機関に電話をかけてみた。
「何も応答がなかったので、最後にはラジオ局に電話して政府の電話番号を尋ねた」
それから娘に電話した。娘は当時、ロンドンでスティーブンの妻、キャサリンの家に滞在中だった。
キャサリンは「初めの何日かはあまり眠れなかった」と話す。
「取り乱してはいたけれど、きっと大丈夫だと希望を持っていた。2〜3週間もすればまた会えると思ったので。何カ月も離れ離れになるなんて、その可能性を自分の頭は処理できなかった」

その頃マリでは、スティーブンたちを乗せた車が砂漠の悪路を揺れて走っていた。
スティーブンによると、車は「何台かの車と合流してから、北の方向へたぶん15時間くらい走った」という。
人質になった3人は車内で横たわったままの状態を強いられていた。スティーブンはホイールアーチにぶつかり続けた衝撃で目の血管が破れ、シャークはろっ骨を強く打っていた。
シャークの妻、ティリーの姿はなかった。ホテルにあったトラックの上のテントに隠れ、拉致犯の目を逃れていた。
「その道のりは現実という気がしなかった」とスティーブンは言う。
「僕は二重国籍なので、英国のパスポートがポケットに入っていることを思い出して背筋が凍った。英国人の人質が過去にどんな目に遭ったか承知していたから」
スティーブンとシャーク、ヨハンはマリ北部のサハラ砂漠のどこかで降ろされ、自分たちを拉致したのはアルカイダ系の武装勢力「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ」(AQIM)だと告げられた。

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AQIMは1990年代に、アルジェリア政府と戦っていたイスラム組織から生まれたグループだ。アフリカ北部で欧米人を拉致し、服役中の過激派の釈放や身代金を要求する犯行を繰り返していた。
「ひどく下手な英語で、お前たちを殺しはしないと言われた。でもそれは私たちに問題を起こさせないため、思い通りに動かすために言ったことかもしれない。みんな恐怖で固まっていたけれども、なんとなく感覚がまひしている気もしました」
「その晩、連中は私たちの目の前で動物を殺しました。それを見て『そう、自分もこうなるんだな』と思ったのを覚えている」
拉致犯たちはスティーブンの英国パスポートを見つけると、祈りをささげたり、砂にひれ伏したりし始めた。
「みんな大喜びで興奮していました。私は南アフリカ人だ、南アで生まれて南アの学校に行ったと説明したのに、それでも英国人だと言い続けた。あれは怖かった」
人質を監視する過激派メンバーは17人ほどいて、カラシニコフ銃や手投げ弾などの武器を持ち歩いていた。

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人質はトイレに行くにも許可が必要で、夜はくさりでつながれた。2週間ごとに目隠しされて、別のキャンプへ運ばれた。
初めの何週間かは、自分たちがこの先も生き延びられると思うか、ここはどこなのか、逃げられる可能性はあるのかと話し合いを繰り返した。
「1人が逃げると言い出すこともありました。でも残った者が危険にさらされるじゃないか、言葉も分からないしどこで水が飲めるのかも分からない、と言い合ったものです」
ヨハンは交渉が何年もかかるのではないかと心配したが、スティーブンとシャークはもっと楽観的に考えていた。スティーブンの父、マルコムも同じだった。マルコムはこの頃までに、南ア警察で人質事件を担当する幹部に会っていた。
「人質が短期間で解放されることもあり得る。スティーブンも2012年の2月か3月には出てこられる見込みだった」
「ところがマリでクーデターが起きて、交渉は振り出しに戻ってしまった」
捕らわれの日々
マリでは2012年3月に民主政権が倒れた。
同時に遊牧民のトゥアレグ人が北部の町や市を掌握したが、まもなく今度はアルカイダなどの過激派グループに支配権を奪われた。
こうした混乱状態のなかで、拉致集団との連絡は途切れてしまった。スティーブンの家族は人質の消息を全く知らされないまま、何カ月も待ち続けるしかなかった。
7月になって、スティーブンとヨハンの映ったビデオが動画サイト「YouTube」に投稿された。2人ともあごひげが長く伸び、それぞれ手にはA4サイズの茶封筒を持っていた。
背後には重武装した4人の覆面の男が立っていた。
スティーブンはビデオの中で「今日、母国からこの手紙を受け取りました。私は元気で、良い扱いを受けています」と話した。
それは家族が書いた手紙だったが、内容を読ませてはもらえなかった。カメラのスイッチが切れると同時に取り上げられたという。
「僕はカメラに向かってうそをついた、そんな気分だった」と、スティーブンは話す。
人質ビデオはそれから少なくとも15本は作られたが、外の世界に流れたのはほんの数本だった。
「担当者がやって来て、まず交渉の進行状況を私たちに説明する。その後で、この人たちに助けを求めてこの人たちにお礼を言え、と指図された」

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スティーブンは意識的に、拉致犯たちと人間関係を築くよう心掛けた。
「メンバーは入れ替わり立ち代わりで、死ぬ者もいれば新たに加わる者もいた。だけど何度も繰り返し見かける顔が多かった」
「自分で決心したことがある。サハラに行くまではなかなかバランスの取れた人間だったのに、出てきた時は怒りと憎しみでぼろぼろだ……なんてことにはならないって」
スティーブンが人質生活6カ月の頃にイスラム教への改宗を決めたのは、そうした理由もあった。
「僕はもともとキリスト教徒だった。イスラム教と共通する話は多い。宗教は砂漠で暮らす自分に、安定をもたらしてくれた」
シャークもヨハンも改宗した。すると、3人ともすぐに待遇が良くなったのが分かった。
礼拝や食事の時間にはグループのメンバーたちと肩を並べるようになり、メンバーはコーランが読めるようにと古典アラビア語を教えてくれた。
「だいたい物を指差しては単語を覚えました。身振り手振りや、砂に描いた絵で通じることもありました」
ただし、メンバー同士が話すハッサニア方言を教えられたことはないという。
スティーブンの家族から次の手紙が届いた時は、読ませてもらえた。
「手紙は本当に心温まる内容でした。母の手紙には、だれかがやって来て私のバイクを修理してくれた、みんながよろしく言っている、と書いてありました」
「妻からは、私たち二人の友人たちの結婚式に行ってきた話や、ランニングのクラブに入った話。人質が解放されるようにみんなで力を尽くしている、とも書かれていました」
2013年1月にフランス軍がマリ大統領の要請を受けて同国に進攻し、短期間のうちにガオとトンブクトゥを奪還した。
スティーブンにとって、この頃は「夜明け前の一番暗い」時期だった。解放される見込みはないと思い込んでいた。
アルカイダはマリで欧米の軍と戦っている。そのアルカイダを相手に交渉しようとする政府はほぼないだろうと、スティーブンは考えた。
「僕のために金を払う人はいないと思った。その金は過激派を潤すことになるから」
アルカイダはスティーブンたちの収容先を毎週変えるようになった。そしてとうとう、ヨハンが脱走を図った。
「ヨハンはどうかしていると思った。アフリカという土地のことも、どれほど遠いかも分かってなかったみたいだ。翌日には連れ戻されてしまった」

スティーブンとシャークはヨハンの共犯として責められた。否定したにもかかわらず、3人ともフランス語の辞書や実家からの手紙、服用していた薬など、なけなしの持ち物を取り上げられてしまった。
「しかも後日、3人のうちヨハンだけが持ち物を返された。これにはものすごく腹が立ちました」
それから1年後、今度はシャークだけが何の説明もなく連れ去られた。
「私たちが座っていた小屋に男がやってきて、シャークに荷物をまとめろと言い渡しました」
見張り役はだれもシャークの行き先を教えてくれなかったが、まだ国内にいることだけは分かった。
スティーブンは拉致犯たちから何度も、もうすぐ釈放だと言われたが、その言葉を信じないようにして何とか持ちこたえていた。
「いったん大喜びしても、何かがうまくいかなかったと分かってどん底に落ち込んでしまう」
「初めの頃は『母の誕生日までに抜け出さなければ』と思っていた。それがやがて『5年後には家に帰っているだろう』に変わってしまった。毎日毎日、毎月毎月を区切りにして過ごすなんて、無理な話だった」
自分が家族に忘れられ、妻の心も移ってしまうのではないかと恐れていた。
「キャサリンには最高の幸せを願っていた。私たちはそろそろ子供がほしい年になっていて、それができる年齢は限られている」
「妻の人生を縛りたくないと思いました。別の男と出会ったなら、私も受け入れるしかない。それが現実になることをほぼ覚悟していた」
闘いの日々

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キャサリンはその頃、ヨハネスブルクで必死に踏ん張っていた。
「言語療法の診療所を一から立ち上げていたので、それに集中することが救いだった。常に時間に追われていたし、仕事を通して何組かの素敵な家族と出会うことができた」
スティーブンとの思い出にいつまでも浸っていられないよう時間に区切りを付け、旅行の写真は見ないようにしていた。
ストレス対策のためにランニングを始め、母や姉妹、スティーブンの両親からの助けに甘えた。
「真っ暗闇に思えるような状況だったけれど、ほんの一筋の希望を信じ続けることができた」
そしてスティーブンの父は、息子の解放に向けた交渉を前に進めようと頑張っていた。
「政府も関わってはいたけれども、そちらは水面下の秘密作戦だった」

民間の交渉人に依頼しなければ、と考えたが、交渉人探しでは何度か「判断を誤った」という。
「自分には影響力や人脈があるという言葉にだまされて、何人かの相手に金を払ってしまった」
「息子と話をした赤新月社のメンバーを知っている、だがまずは金を払え、と持ち掛けてきた相手もいた。息子の犬の名前が言えたら払う、と返したら、相手は答えられなかった」
そんななかでマルコムは、「ギフト・オブ・ザ・ギバーズ(GoG)」という慈善団体にたどり着く。イエメンのアルカイダ系組織と交渉し、人質になっていた南アの女性、ヨランデ・コーキーの解放を実現させたグループだ。
マルコムは息子の代理人としてGoGの設立者、イムティアズ・スーリマンに連絡を取った。
スーリマンは協力を引き受け、まずGoGのモーリタニア事務所を通して交渉を試みた。これは失敗に終わったが、アルカイダは2015年6月、スティーブンが生きていることを証明する新たなビデオを公開。スーリマンはこれに勇気付けられたという。

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「そのビデオを見て、拉致犯たちは交渉を望んでいるのが分かった」とスーリマンは話す。
スーリマンは南アフリカのラジオを通し、現地で交渉役を務めるマリ人を探していると呼び掛けた。これにモハメド・エヒエ・ディッコという男性が名乗りを上げて、1カ月後にマリへ派遣された。
「マリ全土に自分の存在と目的を知らせなさい、と指示しました」とスーリマンは振り返る。
それから1週間もしないうちに、ディッコはある人物から連絡を受け、「あなたがたどり着いた扉は正解だ」と告げられた。

「交渉は時間のかかる長いプロセスです」と、スーリマンは語る。「メッセージは電話やメールではなく人から人へ、順に伝えられていきます」
2015年11月にはもう1本のビデオが公開された。スティーブンはこの中で、自分の解放に向けたGoGの尽力に感謝すると述べていた。
「妻と家族へ。私は元気です。そちらもみんな元気にしていますように。もうすぐみんなに会えるかもしれないと聞いています。南アの団体が解放交渉を仲介してくれているようです」
スティーブンはビデオでそう語ったが、実際は元気とは程遠い状態だった。体重は15キロも落ち、筋肉がやせて80歳の老人のような姿になっていたという。
「関節の具合が悪くて、脚が弱くなっていた。突然ひざの関節が外れて、自分で押し戻したこともあります」
スーリマンは新たなビデオを受け取った後、マリ北部でアルカイダのキャンプ周辺に住む人々を味方につける作戦に出た。
GoGはいくつかの集落に牛を買い与え、食料を提供し、井戸を掘り始めた。やがて指導者たちは、アルカイダと人質解放の話し合いをしてもいいと言い出した。ところがここで、交渉はまた行き詰まる。
「長老たちは説得できても、アルカイダの若者たちが反対した。前例を作ることになるからだめだと言い張っていた」
マルコムはスティーブンの解放を目指して闘い続けるかたわら、重い肺病をわずらう妻を看護していた。妻は酸素吸入が常時必要な容体になっていた。
「大変でしたが、できる限りの世話をしました」とマルコムは話す。
南アフリカのジェイコブ・ズマ大統領に手紙を送り、これまでの経緯と妻の病状を説明して助けを求めた。
「大統領は手紙を読んで、解放のために何かしなければ、という気持ちになってくれたようです」
2016年12月、スティーブンは砂漠の中で南アフリカ政府からの手紙を受け取った。
「過激派の連中はこの手紙が届いたことにとても興奮して、何が書いてあるのか知りたがった」
それはスティーブンに母が重病であることを知らせ、アルカイダに対して温情的な見地からの解放を求める手紙だった。過激派メンバーはがっかりした様子だった。
そして、イスラム教のラマダン(断食月)期間中だった2017年6月のある日。日中の断食を終えた後で、スティーブンはヨハンがもうキャンプにはいないことを知らされた。ヨハンは釈放されたのだ。

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スティーブンは「うれしかった。交渉が成立して人質が解放される、それはあり得ることだと分かったから」と話す。
スティーブンとヨハンはこの1年前に、シャークが仏軍兵士らの手で解放されたといううわさを聞いていた。つまり、スティーブンは人質3人の中で最後の1人になったわけだ。

そして7月、スティーブンも解放の予告を受けた。
「信じられなかった。確率を尋ねると60%だという。これまで90%と言われた時でさえだめだったんだし、と思った」
しかし数日後、スティーブンは車に乗せられた。車はそれから2日半、サハラ砂漠を走り続けた。
ついに止まったのは、ガオのすぐ手前の舗装道路の上だった。
「運転手がこちらを向いて、解放だ、行っていい、と言いました」。スティーブンは後日、記者会見でそう語った。
運転手が冗談を言っているのだろうと思った。
「信じないというのなら歩いてみろ、行っても大丈夫だ、と言う。脚を引っ張り戻したりしないよと、単にそういう意味かなとも思いました」
もう1台の車がやって来て、スティーブンはそちらに乗り換えた。この時ようやく、自由の身になったことを実感した。
「なんともいえない瞬間でした。それまでの5年半、あまりに多くの浮き沈みがあったので、何がどうなったのかなかなかのみ込めませんでした」
ついに自由に
スティーブンは健康診断と聞き取り調査を受けた後、2017年7月29日に故郷ヨハネルブルクへ戻った。途中で家族と話をさせてもらえなかったので、実家がいったいどうなっているのか心配になってきた。
「付き添ってきた男たちに、これから帰る実家はひどいことになっているのか、と聞いてみた。返ってきたのは『ああ、素晴らしいデザートだったじゃないか』という言葉だった」
実家まであと10分というところで、母がつい2カ月前に亡くなったと知らされた。その時は実感がなく、まるで夢の中にいるようだったと、スティーブンは振り返る。
「言われた意味が分からなかった。『こういう時はどう感じたらいいんだろう。泣くべきなのかな』と考えたのを覚えている」
スティーブンが解放されてからすでに2~3日たっていたが、父と妻が解放の知らせを受けたのは、本人が実家に着く1時間ほど前のことだった。
「車からまず父の姿が見えた。涙があふれてきて、ただただ泣いてしまった。ひたすらうれしくて、信じられなくて」

マルコムも「とにかくうれしかった。両手を回して抱き締めると、幻ではない本物の息子がそこにいた」と話す。
スティーブンは家に足を踏み入れた。そこではキャサリンが、空港にいる夫に届けようと衣類をかばんに詰めていた。
「キャサリンは、私がもう着いているとは知らずに駆け込んできた。僕のかばんがあったと、ものすごい勢いでしゃべりながら」
「そして両手で顔を覆うと、丸くなって泣き始めた」
「彼女があまりに美しくて、びっくりしてしまった。彼女に会えて、どうしようもなく嬉しくて」
「スティーブンは変わり果てた姿だったけど、にっこり笑う顔は昔のままでした」とキャサリンは言う。「髪がくるくる伸びて、そんな姿は想像していなかったし、砂漠用の服を着ていたのでちょっと戸惑ってしまったけど」。

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キャサリンはスーリマンに電話をかけて、スティーブンが帰ってきたことを伝えた。
スーリマンは「我を忘れて喜んだ。家族がそれまで何年も苦しむのを、私も見ていたので」と話す。
スティーブンは自分がなぜ解放されたのか、よく分からないという。ただ米紙ニューヨーク・タイムズに身代金のことが書かれたのは知っている。南アフリカ政府から300万ポンド(約4億5000万円)の支払いがあったという記事だ。
南アフリカ当局者らは身代金の支払いを強くしている。

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何があったにせよ、解放に尽力してくれた全ての人に計り知れないほど感謝していると、スティーブンは言う。
スティーブンによれば、今の課題は元の生活にどうやって戻ればいいのか、その道筋をつけることだ。
「父や妻、姉妹にはつい昨日も会ったばかりだったような気がするけれど、そこには6年間という大きなブラックホールがある」
「今は地に足がつかない気分で、自分の居場所はどこなのか、それもなかなか分からない」
実生活でも壁にぶつかることがある。古い銀行口座の暗証番号を思い出すのも、痛めた背中や日光にやられた目の治療を受けるのも一苦労だったが、自分でも驚いたのは精神的な後遺症だった。
解放された当初の高揚感は消えて、代わりに「思考と感情の渦」が巻き起こった。これが時間とともに収まってくれることを願っているという。
今はストレスへの「対処モード」に入っている時期なんだと、スティーブンは考える。ただし自分を襲ってくるのは、こういう場合によくある気分の浮き沈みではなく、「グレーのドロドロ」だと話す。
砂漠での生活が長かったせいで、今は大量の情報に圧倒され、周りの人とも心を通わせづらいと感じている。
「何気ないおしゃべりが難しい。友人たちの世間話といえば『あのコーヒー、すごくおいしくない?』。僕の世間話は『夕べの砂嵐、はすごかったなあ』なので」
英語も少しさび付いていた。
「ぴったりの言葉がなかなか見つからない」という。
スティーブンの悩みをよそに、キャサリンは「根は同じ人だから」と話す。「今も変わらず、私を笑わせてくれる。そこが大好きです」。

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スティーブンは、日常の何気ないことに以前よりありがたみを感じるようになったという。例えば、雷雨が来たら屋内に入り、暑い時は木陰へ逃げ込むことができる。
失われた時間を取り戻したい一心で、マリにいる間に生まれていたおいやめいとも対面した。
「あの子たちの寝顔は実に安らかでけがれがない。こんなに美しいものを目にするのは、本当に久しりだ」
父とサイクリングに出かける計画もある。
「父を誘い出して自転車に乗らせたい。健康にいいから」とスティーブンは話す。
「父は自分の事業と母の病、私の拉致事件を一手に引き受けなければならなかったのに、だれよりも前向きな人。信じられないほどのお手本だ」
スティーブンは砂漠にいた頃、「抜け殻」にはならないと心に決めていた。その目標は故郷に戻った今も変わらない。
「鈍感な人間にはなりたくない」
「今の私はだれかが問題を抱えている時、前よりその人を思いやれるし、同情できるようになった」
「周りを見向きもせずに蹴散らして進んでしまう、そんな人生を送りたくないので」





