分離独立派との戦闘開始から8年 ウクライナ東部の都市のいま

ジョエル・ガンター、BBCニュース(ウクライナ・ハルキウ)

ウクライナ東部ハルキウ(ハリコフ)市中心部から車で30分ほどの場所にある、低層の建物が立ち並ぶ工業地帯では、幹線道路から奥まったところに、青い金属製フェンスで囲まれた白い輸送用コンテナのようなものが並んでいる。

ずらりと並んだコンテナは、この時期になると雪に覆われる。実はこれらは、ロシアの後ろ盾を受ける分離派が東部ドンバス地方の大部分を武力で占領した2014年に、戦闘から逃れてきた人たちが仮住まいしているコンテナ村だ。

この「モジュール都市」の住人は、驚くほどすし詰め状態で暮らしている。工事現場で見かけるような移動式キャビンを想像してほしい。低い天井には細長い蛍光灯がついていて、内部はリビングやキッチン、バスルームにわかれている。この空間で2~3人、あるいはそれ以上の人数の家族が生活している。

「確かに、この居住環境には気がめいります」と、夫と年老いた母親と暮らすリュドミラ・ボボワさんは言う。共同住宅の一室で2段ベッドで眠り、キッチンとトイレを他の家族と共同で使っていた頃よりは、比較的ぜいたくな暮らしはできている。

ボボワさん一家はここにいられることに感謝しているという。ボボワさんは自分たちが逃れてきた分離派が占領する地域について、「あの場所での生活は灰色でどんよりしていて、自由に息ができない。ここでなら自由に息ができます」と述べた。

生活環境の変化については肩をすくめるだけだった。「あれは一つの人生。これはもう一つの人生です」。

ボボワさんがかつて住んでいた小さな鉱山の町モロドワルディスクは、ロシア国境から目と鼻の先に位置する。政治活動も少なく、なんとなくロシア寄りの人ばかりだったという。

東部での戦闘が始まると、ボボワさん一家は何千人もの人たちとともに同地域から逃げ出した。「雷がゴロゴロ鳴るように」砲弾が降ってくる中、徒歩と列車で逃れたと、ボボワさんは述べた。

一家はこのモジュール都市にたどり着き、それ以来ここで暮らしている。ドイツ政府が資金を拠出したモジュール都市の運用は最長3年とされていたが、7年たったいまも175人ほどがとどまっている。

「一時的なものほど不変なものはない」と、仮設住宅の状況を監督する地元議会のアルトゥール・スタツェンコ氏は言う。「国は住人たちを全く管理していない。私たちはこの8年間、国家予算から何も受け取っていない。社会復帰のための特別な省があるというのに、私たちにはちっともお金をくれない」。

BBCは、2016年に創設された、ドンバスからの国内避難民(IDPs)のケアを任務とする社会復帰省に質問したが、同省は回答を拒否した。

「戦闘よりも日常が気がかり」

こうした中、ロシアによるウクライナ侵攻の脅威が迫っている。ハルキウへ逃れた国内避難民は再び別の場所へ移らなければならない可能性がある。ロシアが侵攻すれば、ロシア軍は国境からわずか約40キロの彼らの仮住まいがある場所を通って進軍することになるだろう。しかし、モジュール都市の住民には、侵攻の可能性よりも懸念していることがあるようだ。

「私たちは事態がエスカレートしていることや、また逃げなければならないかもしれないということは口にしていません」と、イリーナ・ベリンスカさん(64)は言う。孫が9人いるベリンスカさんは、体調の悪い夫と仮設住宅で暮らしている。

「私たちにはプラスチックでできた小さな家ではなく、きちんとした屋根が必要です」と、壊れた天井と反り返った床を指差しながら話した。

「私たちにとっては戦闘よりも、もっと日常的なことが気がかりです」

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民間人も軍事訓練

ウクライナ東部での戦闘は、首都キーウ(キエフ)から約480キロ、ロシア国境からわずか50キロほどの場所に位置するハルキウの文化的アイデンティティを変化させた。この街では歴史的にロシア語が使われており、ベリンスカさんはロシア語で取材に応じた。一方のボボワさんは、いまではウクライナ語しか話さない。2014年に故郷を追われたボボワさんは一夜にしてロシア語を捨てた。戦闘に対する個人的な抗議のようなものだ。

ドンバスを支配した分離派はハルキウも占領しようとし、市中心部にある地元政府の建物に短期間、分離派の旗を掲げた。失脚した当時のウクライナ大統領ヴィクトル・ヤヌコヴィッチ氏は政治的支援を求めてこの街に逃れたが、街頭での抗議行動に遭い、再びクリミアに逃れた。

「ハルキウはずっと親ウクライナの地域でした」と、2014年から地元政府施設の向かい側で親ウクライナの抗議テントのようなものを運営しているボリス・レディンさんは話す。「ですが、戦闘が始まってからはどの街もそうですが、よりウクライナ寄りになっています」、「ロシア人が私たちを攻撃したいのであれば歓迎します。私たちは恐れてなどいません」とレディンさんは述べた。

ロシア軍が国境付近を移動する場合、ハルキウは理にかなった目的地となり得る。ただ、ウクライナの住民による激しい抵抗に直面する可能性がある。ウクライナでは多くの人が義勇隊に入隊し、軍事訓練を受けているためだ。2週間前にはデモ隊がハルキウの路上を再び埋め尽くし、「ハルキウはウクライナだ」、「ロシアの侵略を止めろ」などと声を上げた。

「人々は領土防衛隊に加わっている。有志の市民が続々と戦場に向かっており、そのすべてが機能している」と、ハルキウのスヴィトラナ・ゴルブノワ=ルバン副市長は話した。「どんな状況でも、あらゆる手段を使って自分たちの街を守る準備はできている」。

親ロシア派が減少

この街には、38の大学に博物館、盛んなハイテク分野、活気ある現代アートシーンなど、守るべきものがたくさんある。ウクライナの著名な作家オクサナ・ザブジコ氏は3週間の滞在を終えたばかりだ。

「戦闘が始まった時、ハルキウでは芸術が爆発的に誕生しました」と、同市の現代美術研究所のナタリア・イワノワ所長は言う。「抵抗や抗議、拒絶を示す芸術でした」。

ドネツク州やルハンスク州から逃れたアーティストやオペラ歌手は、ハルキウの劇団やオペラプロダクションに招かれたと、地元の演劇ディレクター、スヴィトラナ・オレシュコ氏は言う。「彼らはハリコフで歓迎されました」、「ここは若者の街なので、住民ははるかにウクライナ寄りでロシア派は少なくなっています。彼らはドネツク州やルハンスク州、クリミアのような生活はしたくないと思っています」。

ここの住民は、西部の都市とは違うかたちで戦闘を感じている。前線に向かう部隊はハリコフを通過するし、けがを負えば病院へと戻ってくる。家族はバラバラになり、ドンバスからの12万~35万人の難民の流入も分断を生んでいる。

避難民に対する「明らかな差別があった」と、地元の非政府組織「ステーション・ハリコフ」の責任者、アラ・フェシュチェンコ氏は証言する。

「例えば、避難民が親ロシア派になるのではないかと恐れ、アパートの契約を断るケースがあります」

「一方で、ほかのハルキウ住民の避難民への対応は素晴らしかった。自分たちも彼らと同じ運命をたどる可能性があったと、自分たちはルハンスク州やドネツク州より幸運なだけだったと理解していた」

戦闘が始まった当初は街中で、「子どもたち」と書かれた布を屋根や側面に貼って走行する車を見かけることがあった。これは、紛争地域から逃れてきた人の車であることを示すものだと、フェシュチェンコ氏は言う。

「彼ら(避難民)は自分たちがもう脅威にさらされていないとは信じられず、あの布を外さなかった」

仮設都市は「悪の極み」

ハルキウにやってきた避難民について、確かなことが1つあるとフェシュチェンコ氏は言う。それは、連邦政府が「彼らを完全に失望させた」ことだという。

「モジュール都市は悪の極みだ」と、フェシュチェンコ氏は指摘する。「絶対にあんなところに人を置いてはいけない。あの場所ではけんかが起きたり、窓ガラスが割れたり、入居者同士の争いが起きるなど、完全に混乱状態に陥っていました。あの場所は人々を最下層に追いやってしまう」

ハルキウのゴルブノワ=ルバン副市長はBBCの取材に対し、4年前から「モジュール都市」の跡地に恒久的な住宅を建設する計画があり、その費用を政府と3:7で負担することで合意していると明かした。ただ、社会復帰省からはまだ何の支払いもないという。

「モジュール都市」にとどまっている住民の最大の関心事は、適切な住居に移れるのかということだ。彼らは真のハルキウ住民になりたいと考えており、自分たちの懸念を議論するため時折、評議会を開いている。そこでは戦闘の今後の見通し以上に、社会復帰相のことが話題に上るという。

ハルキウへ逃れたボボワさんは、故郷モロドワルディスクのことを恋しく思うことは全くないと話す。遠い親戚がいまも暮らしているものの、彼らの話を聞いても戻りたいとは思わないという。

「戦闘が始まる前は私の人生は満ち足りていました。でも、この場所で私が求めているのは自分の家を持つことだけ。それがかなえば、また人生は豊かになる」と、ボボワさんはウクライナ語で語った。

取材協力:ダリア・シピジナ